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とば屋酢店の歴史(12代当主の嫁の話より)

12代当主の嫁

はじめまして。今日は“とば屋のページ”を開いていただき、ありがとうございます。私は、中野裕子と申します。一応12代当主の嫁ですが会社では、女性の立場から「酢について」皆様に知っていただきたいとホームページを担当いたします。どうぞよろしくお願い致します。今から30年前とば屋に嫁いだ私は、お恥ずかしい話ですが「酢」はどうして造られるのかも知らない有様でした。

創業以来とば屋は、昔ながらの変わらぬ製法で米酢のみ醸造しておりましたので世の中が本物を見直す時代となり、酢も外にむけて取り上げられる時代になりました。私も機会があるごとに勉強させていただいております。酢は、歴史的にも一番古い調味料です。健康嗜好としての酢より、一人でも多くの皆様に「とば屋の酢は、どこよりもおいしい」と知っていただきたいと12代の嫁として考えております。 私の聞いたことや見たことは、直接お酢とは、あまり関係ないかもしれませんが「とば屋の酢のかくし味」としてお読みくださればうれしく思います。

初代は道具屋

初代は道具屋

とば屋の創業は1710年(宝永7年)ですが初代は、道具屋と聞いております。1600年時代からの祖先がおまつりしてございますので、5代目から酢醸造をはじめたようですが残念ながら(何度も大火にあっている)その時代の資料は、残されておりません。(とても知りたいところですが)

酢の製造法が日本に入ってきたのは、5世紀ごろです。酒造りの製法とともに中国から入ってきております。平安時代からもう酢があったのですね。まだ醤油や味噌の無い時代にも塩と酢は食べられていたようです。

なぜ米酢を醸造するようになったかは、わかりませんが酒粕酢は、ミツカン酢がはじめて江戸時代の末期から造られたので江戸初期のころは、やはり米からつくる酢が主流だったと思われます。

真っ白い酢を小売り

昭和初期までは、真っ白い酢を小売りしていたときいております。よく酒つくりが失敗すると酢になると聞きますが、それはすっぱい酒でやはり酢は酢酸発酵を起こさないと食酢とは、いえないと思います。さて、とば屋も道具屋でしたので古い道具が多くありましたが江戸時代に何度も大火事に合いその度に外に道具を出すと火事は治まった頃には、出した道具の多くは、盗難にあい(火事場泥棒?)なくなってしまったそうです。

私が嫁にきた頃は、木製であればどんなものにも「とば屋」の商標の焼印がおしてありました。焼印が押してあると盗難予防にはなりましたが、道具の売り買いはできませんので商売変えをしたのかもしれません。若狭は、昔から水が豊富でおいしく造り酒屋も多く存在していたようです。

江戸時代 宝永年間

江戸時代中期、とば屋では5代目治良右衛門より姓を中野と称し、代々造酢業をいたしておりました。小浜藩主酒井家の「鷹部屋」〔鷹狩の鷹を飼っていた屋敷〕を払い下げ受け住居となしたので「鷹部屋の酢」として珍重されとても繁盛したと聞いております。

宝永年間の前は、元禄時代ですが江戸で大火事や災難があまりにもつづき宝永に年号がかわったそうですが、その頃のとば屋治良右衛門は、6代、7代と興隆の様子が覗えます。ともかく昔は、よく大火事が起きたという話は、先々代にもよく聞かされました。 富士山の大噴火もその頃にあり、その頃の鳥羽屋の先祖は、どのように過ごしていたのだろうと見てみたいものです。私が来た時は、奥蔵、中蔵、前蔵、外蔵と4 棟建っておりましたが、いずれも江戸末期から明治に建てられたもので火事は、ほんとうに再々あったようで昔のものは、すべて燃えたと聞きました。

次回に詳しく書かせてもらいます。とば屋の酢は、昔は、むろの中に壺をうめていわば縁の下の地下室ようなところで醸造されていました。その前は、大きな桶で断熱のためコモ(藁で編んだ厚手の筵)などをまいて仕込んでいたと聞きますが、桶の輪(竹製)がはずれて酢が流出したりしたので壺にかえたと聞き及びますが、ひょっとして火事などの被害から守るためではと私は、推測します。

先出の前蔵

先出の前蔵は、当時ではめずらしいレンガ蔵でしたのでこれも火事から守るためのものではなかったかと思われます。しかしながら昔の人たちの再建へのエネルギーはすごいですね。今そのようなことが起きればとば屋は、立ち直れるのかしら?でもこの酢づくりを次の代へ渡さなければ ならない使命が、、、、、

大火事

とば屋の由緒によれば、江戸の大火よりずっとあとに小浜の大の記載がありました。 嘉永6年(1854年)3月10日南風激シク吹キ荒レ肝ヲ冷ヤシテ警戒ナシタル夜、 今在家番屋ノ老婆板塀ノ倒レヲ直サン持テ出テシ提灯ノ火ヲ誤マリ小濱町中ノ大火災ノミカ川向ヒ四ツ谷ヘ送風ノ為火飛ヒ折角持チ出デシ衣服夜具手道具ハ一 点モ不残灰燼トナリ松平屋敷マデモ延焼 ・・・・・と生々しく記載してあり町全体が丸焼けになった様子が伝えられています。

子供等は、乳母とともに避難すと書き記してありすぐに屋敷を建てる術もなく現在の所に仮小屋を建つとあるので今の所は、 仮小屋の後なのかと火事になる前の隆盛ぶりが覗えますが資料は、何も残っては、おりません。 将来の目途を計りおりし時、安政5年8月(1858年) 須崎町船屋イヘイ船小屋ヨリ出火シ北風烈シク遂ニ延焼シテ大火災トナル又類焼ス ・・・・とあり今ならばテレビのニュースに大きく取り上げられそうな小さな町の続いて起きた大きな災害でした。

とば屋の先祖は危機一髪、國札を背に負い避難したので仮屋は、燃えましたが蔵は残り庇で住まいし疎の後、無事であった國札にて家を建つとあります。

親戚に大きな藩御用達の荒物問屋がありそこは最初の火事の後3年がかりで新築なったところまた全焼すとあり不運の様子が覗えますが当時の資金力の大きさも察せられます。

とば屋のあった通りは、質屋町というのですがそのあと建った旧家の商家は、二階は軒低く造作も粗末で3次災害への恐怖と道具などすぐ出せるようにとの想いが感じられます。さてその災害時、家業のお酢づくりは、どうしていたのでしょう…。詳しい記載は、ないのですが当時は復興にたいへんだったと思われますが、男の衣類や絹を船頭(小浜は、北前船で栄えていた)に売り醸造用の米を仕込んだと記載があり蔵の中の衣類を放し家業を継続させたものと当事の苦労がしのばれます。

とば屋復興

当時は、誰々の媒介でとか誰々の世話でとか親戚が心配しという記載がたくさん出で来るので親せき知人が助け合ってとば屋の復興に再興に尽くしていただいたものと150年前の皆様に感謝せずにはいられません。

代々、養子で栄えたとばや酢店

前回は火事の話を書きました。その時のとば屋の様子は映画やテレビドラマで見る時代を参考に想像するしか仕方ありません。しかしながら、その時代「とば屋 治郎右衛門」が実在し、現在のわが家があることだけは、事実であります。大火事での大災害の折、仮屋や蔵の庇に住居し酢醸造の継続をしたことや、衣服や絹を売り原料の米の仕入れにあてたことなどが記録されています。

その頃の隆盛ぶりからみると家屋は、すぐにでも再建できたのではないかと思うのですが、まず酢の製造が先で私邸は最後になったようです。 しかしながらそれが幸いして最初の大火事の後、わずか4年後の2度目の大火事の時は、まだ仮屋住まいであったため被害を免れその後に住居をなしたと記載があります。 もう一つ嫁の私が考察するに(なんか偉そうですね。)4代6代7代は続けて継子なしとして同じ親戚うちから養子にきてもらい代を重ねています。

代々、養子で栄えたとばや酢店

期待され養子となった代は、やはり親に遠慮をかさね家の大事を考えたのではと…。もと他人である嫁の私は12代目になる主人の口ぐせなどを聞くにつけ、その思考のルーツもまたそのころからの流れを汲んでいるように思われてなりません。それは、日本の伝統のすばらしさでもあると私は考えるのですが、 代々のなかでも退隠して治郎右衛 門を譲ったのは、8代だけで72歳まで長命しています。

当時の苦労と災害のあとの復興の大変さが由緒に詳しく書かれています。「一改革イタシ一層力オ尽シテ働キ知ラズ識ラズノウチニ勘定モ立チテ日々隆盛ノ今日トナレリ」未曾有の大火災に2度もあいながらこのようなことばが子孫に残せるとしたら大変な功績があったと思われます。

他家より養子として入った8代のその家庭生活は、波乱万丈で京都の医師の娘を妻にしていますが子供を一歳で亡くし後を追うように妻は、 病死、後妻は、2男4女をあげていますが9代と長女以外はすべて若くして亡くなっております。経済生活が安定すれば家庭生活に波乱が訪れる世の常の縮図を見る様なこの時代です。

次回は、9代の治郎右衛門・・・・若い時は、放蕩と記されています。

9代目の治郎右衛門

9代目の治郎右衛門

養子がつづいたとば屋にやっと生まれた9代目の治郎右衛門の時代背景は、たぶん小浜の町も随分と栄えていた頃のようです。小浜は、城下町としても全国の中でも賑わいのある町で、現在3万5千人の人口で江戸時代の人口が2万人ともいわれ、割合からいえば 相当の町だったことが伺えます。小浜の港には、3丁町といわれる遊郭もあり遊郭がある港町は、船乗り達で賑わったそうです。

明治になって鉄道が敷かれるまでは、交通は、多くの荷が一度に乗せられる船便が主流であったため港町が発展し、とば屋の酢もどんどんと桶に入れられ、荷車で港へ運び、港の北前船に載せられ 遠く北海道まで昆布の加工用に運ばれたようです。

さてそんななか9代の当主治良衛門幼名、政吉は 子供の頃は、大火事などで波乱があったようですが店が落ち着いた頃には、若旦那として放蕩息子だったようです。伝え話に自分の朝帰りに泥棒と出くわし泥棒を捕らえた話があります。お酒も相当飲んだようです。ところが大店の塩谷孫兵衛の一人娘キヌを嫁にもらってからは商売に精を出すと書かれた物があり古今東西男は、嫁でかわる?のでしょうか…。一人娘のキヌの嫁入りに関してはいろいろな話があるのですが、、、残念ながらキヌの実家は、没落してしまいました。

とば屋の興隆ぶり

キヌは、後も実家の菩提寺や墓をずっと守り代々私の姑の代までキヌの実家のお墓をおまつりしていたようです。実家の菩提寺までしっかりと面倒がみれるのですからこの頃のとば屋の興隆ぶりが伺えます。

商標ともいえる江戸時代から瓶の形をした木の看板がありますが、昔軒先にかかっていておおきな酢(す)の字がかかれたその看板には、両面に、「造元(つくりもと)「極上」「於路し(おろし)」と彫ってあり小売り業ではなく「米酢」の卸元だった様子が伺えます。(この解読は、近世社会史ご専門の専修大学の青木美智雄教授が当方に立ち寄られた折、 解説してくださいました。)次回は、キヌさんのお話です。

残された女傑

9代目治郎右衛門

9代目治郎右衛門はキヌとせっかく所帯がもてたのに若いときの酒がたたり胃の病にて52才で逝去してしまいました。キヌは42才で後家になりました。この頃の話は、100年ほど前の話ですが、車も鉄道もない時代。 人力車で京都へ、私が嫁いだころまだ祖母(キヌの娘ふく)が存命でしたのでキヌの話は、よく聞かされました。肖像画なども残っており、その姿が大阪の伯母とそっくりなのでDNAのおそろしさを認識しました。

キヌは、なかなかのしっかり者で、女ながらたくさんの使用人とともに無事とば屋の酢づくりを踏襲することができたようです。 またたいへん弘法大師への信仰があつく我が家にも現在りっぱな祠がまつられています。
前蔵、中蔵、奥蔵と屋敷には3つ蔵があり外蔵といって巽の方角に道具蔵もあったのですが前蔵は、めずらしいレンガ蔵で火事にも耐えられるようにたててありました。建て前のときには出入りの者にすべて、とば屋の揃い半天を着せたという(いま物産展で半天愛用しています。)興隆振りがうかがえます。

キセルをふかし晩酌をして男まさり

キセルをふかし晩酌をして男まさり、あちらこちらのお寺まいりに人力車ででかけたということです。9代目治郎右衛門とキヌの間には、男子が2人出来ましたが1歳ぐらいで2人とも病死・・・ あきらめて遠縁の娘を養女にして育てていたところ「ふく」が誕生しました。久しぶりの実子にてふくは、本当にお嬢様として育ったようです。養女とともに大きくなりましたが養女は、家をもらい出入りの者と所帯を持ったそうです。キヌさんが太っ腹なところはこの養女が嫁いだ先は、借金で家を売ってしまったそうなのですが、また家を買い戻して難を助けたそうでその家からは、代を重ねた今もお礼を言われます。

けれどもとば屋は、8代 9代と若くして子供たちがこの世を去り因縁が深くキヌのお寺参りや信心もそんな願いがあったと私は思います。キヌはとば屋には功績のあるおかみさんです。

脈々と受け継がれてきたとば屋の伝統は、10代目治郎右衛門、11代目、そして、現社長の12代当主へ。これからも、とば屋のお酢の技と味を守り続けます。